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歴史・沿革


戦国末期の史書である『反故裏書』に、「此国ニ和田(越前足羽郡)の信性ト云人有。是ハ参川国野本証寺ノ末学也。先祖慶円(円善弟子の念信の弟子、本証寺祖。三河念仏相承日記では和田教円坊)ハ、高田顕智聖ノ弟子也〜。同国(三河)和田ノ円善(『三河相承念仏日記』の安藤権之守)ハ、是モ真仏聖ノ弟子ニ遠江国鶴見専信房専海ト申セシ人ノ門徒也。何モ開山親鸞聖人在世ニ逢奉シ御門人也キ。彼円善ノ弟子、越前国大町ノ如導ト云者アリ。田嶋ノ興宗寺行如・和田ノ信性アヒトモニ、覚如上人御在国ノ中、御勧化ウケヲレシ法徒也。和田の信性卒去ノ後、嫡男・次男家督ノアラソヒ出来タリテ、門徒アヒワカレリ。兄長松丸ハ母儀早世アリ。弟長若ノ母公、様々ノ謀略トシテ、過半カレニ同心セリ。ヨリテ長松丸メノト、信性の御影一幅・重代ノ太刀ヒソカニトリテ、長松丸ト同ク坊中ヲ令退出。シカレトモ時イタラサルカ、長松丸卒逝アリシカハ、其門徒衆東山殿(本願寺)ヘ申上ラレ、君達ヲ申シウケ奉ル。頓円鸞芸ト申是也。巧如上人ノ御舎弟也。」と記す。

この『反故裏書』と各種交名牒の記述を元にすると、親鸞直弟の専信の弟子に、念信(三河妙源寺祖)→慶円(後の三河本証寺祖)、信願→願明(三河勝鬘寺祖)、慶念→慶願→蓮願(三河上宮寺祖)、如道(越前三門徒祖)→導性らがいる。すると、三河三カ寺も共に円善系で、遡ると専信系の法脈に属していることとなる。
このうちの慶円の弟子に、和田の信性がいる。信性が足羽郡和田庄(現福井市)に寺基を定めたのは14世紀頃と考えらている。信性没後、門末は分裂、長男系統は後に超勝寺を分立し、異母系の次男が本覚寺の祖となる。信性と如導は、越前ひいては北陸一帯において、原始門流系の法脈を伝えた人物である。

蓮如上人吉崎退出後、蓮光は「吉崎殿」と称され吉崎御坊の留守職を預かりました。
永正3年(1506)一向一揆により、加賀に逃れ、それより62年の後、永禄11年(1568)朝倉代と一向一揆勢の和睦により、ふたたび越前に帰りました。

北庄城主堀秀政のころ、北庄柳町(現福井市)に移り、万治2年(1659)の大火で類焼の後、表御堂町に移りました。そして昭和20年の福井大空襲によって堂宇ことごとく焼失し、門徒の中心である現在地に移り現在に至っています。

真宗懐古鈔によりますと「よって和田の本覚寺と下間安芸の法眼をもって、朝倉居城クロマルの館へ、吉崎の地を請い給えば、敏景大いに悦び、蓮如上人を尊教の思い深く。」と書かれています。真宗懐古鈔は真宗辞典には出ていません。従って民間の一書にすぎないかもしれませんが、しかし朝倉敏景が黒丸城に居たのは文明3年5月までで、その後は足羽川上流の一乗谷に移っていますので、年代的には合っています。

蓮如上人遺文に「吉崎事留守之儀、於于今無等閑事候間、悉皆それの可為計候間、心安く覚候。仏法不思議之事候間、さのみ煩もあるましく候。乍去老体の事候間、御身労推量申候。愚老も事外老屈候間、迷惑こそ候へ、毎事期後言候。恐々謹言。五月十日  蓮如(花押) 本覚御坊」このお手紙により「吉崎の事、留守の儀。心安く覚え候」とあり、本覚寺にすべてを任せて安堵しておられる上人の御様子が伺えます。


戦前の本覚寺(福井市松本)
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